呼び出された理由は、まさかの・・・

 

「話があるから来て欲しい」

 

そう連絡を受けたのは、ある日の20時ごろでした。

突然の電話で呼びつけられ、義妹の働いているお店まで向かいました。

 

義兄と2人で経営しているコンビニでした。

夜遅くにもなると、田舎のコンビニはお客さんの数がとても少なくなります。

レジで接客している店員さんにとっては、余裕の出てくる時間帯です。

 

ましてや、経営者側ですので自分達のやりたいように接客もでき、ある程度の自由はききます。

そんな居やすい環境というのもあり、近所に住んでいる私も簡単に呼びつけられるということです。

 

少しは遠慮して欲しいなぁと思う事もありますが・・・・・・。

 

急に来て欲しいと言われ、話したいと言われても私には何の話がしたいのかがよく分かりませんでした。

大方、娘の悪口をまた言われてしまうのではないかと。

仕方なく用意をして私1人で深夜のコンビニへ向かうことにしました。

 

お店に入るとすぐのレジに、義理の兄と妹が立っていて私に注目しました。

そのままレジ横で話し始め、バックヤードにまで場所を変えたりして話し込みました。

 

内容は、やはり娘のこと。

そして、私の夫の事でした。

 

相手は義理の兄と妹ですので、夫は次男になります。

よく知れている仲ではありますが、正直言って夫とは兄妹間の仲は悪いです。

 

娘が学校に行かなくなったことで、義父の機嫌が悪いということ。

娘が学校に行けないのは、夫の生活の仕方が悪いんだということ。

 

簡単に解釈すると、そんな感じの内容でした。

 

その話は永遠に続き、気づくと22時を回っていました。

私はその2時間もの間、永遠に娘と夫の悪口を聞かされ続けました。

 

義理の家族は、常に父親の機嫌に左右されて生活していました。

孫が学校に行かず、食事に連れて行っても手を付けずに帰ってしまう――。

 

そんな事があったりしていた時期でしたので、それに腹を立てているのだと。

 

そんな娘にしてしまったのは、夫にも問題があるのだと。

 

それをどうして私に言ってくるのか?

結果的に、直接には言いませんが私も悪いのだと思っていたのだと思います。

 

特に夫に対しての悪口は酷く、変われるように気がつけなければ改善はされないなどと色々な事を口々に聞かされました。

よくもまあ、そんなにツラツラと他人の悪口が出てくるものだなと心底呆れてしまいましたが――。

 

一応は私も嫁の立場ですので、2人との接し方は分かっているつもりです。

反発は一切せず、そうですよねぇ・・・・・・と相づちを打ちながらこくりこくりとひたすら聞いていました。

 

というのも、自分の意見が全て正しいと思っている人たちだからです。

言い返したところで「でも、だって」が始まります。

仕舞いには大声で怒鳴られてしまいますので、私はうんうんと共感しながら話し込むしかありませんでした。

 

ようやく話し終わり、家に帰った頃には大きな脱力感と虚しさが襲いかかりました。

 

永遠に2人から聞かされ続けたのは、私の愛する夫と娘に対する不満と悪口。

 

心底、呆れましたし、悲しいの一言でした。

 

遅くなったので夫に不審がられ、何の話だったのかと問われましたが、とても説明する気にはなりませんでした。

 

「どうせ俺の悪口言ってたんだろ」

 

ご名答です。

 

何も言わずにそのまま不貞寝しました。

泣きながら、娘の寝顔を見て頭を撫でました。

夫にも何も伝えずに大丈夫だと言いました。

 

どうして私ばっかり・・・・・・と思ったりもしましたが、それ以上に悩んでいる娘と夫が可哀想でなりませんでした。

 

と、言うのも。

 

娘よりも先に、夫の方が悩んでいたからです――。

 

 

 

(つづく)

義理の妹が放った「最低な一言」

こんにちは! るんらびです^^

 

娘の体調不良がきっかけで、登校拒否が始まるようになってしまうお話ですが、きっと殆どの子供達がそんな些細なきっかけで登校拒否になるのではないでしょうか?

 

これは、悪魔で私の意見ですが・・・・・・。

イジメなどはっきりとした理由などもあったりはしますが、大体は心の問題、身体の不調で「行きたくないー!」ってなってしまうのかなぁ? という気がします。

 

娘は先生に言われたことはすぐに出来てしまう子です。

幼稚園のころから、特に癇癪(かんしゃく)も起こさず「はい、はい」と言われたとおりにし、友達同士でも争いがなく優しい子でした。

 

結局を言うと、真面目で大人しいのです。

真面目で大人しい性格の子は、自分の中で沢山我慢していることがあります。

もちろん、大人しくなくても沢山我慢していますしお利口な子達です。

ですが、大人しい=自己主調ができにくい子なのかな? とも思います。

 

嫌な事を嫌と言えない、やりたいことをこれがしたいと言えない。

先生や大人に促されて言われたことだけをやって我慢する。

 

そんな、自分でも気がついていないほどの不満が重なり、不安があっても相談できず、なんだかよく分からないまま体調に変化が出てきてしまうのかな~と感じています。

 

ウチの子も、そんな大変な思いを我慢していたのに、我慢できなくなってきたのかな~と思ったら、なんだか悲しくて涙がとまりませんでした。

 

頑張っていたんだね、気がつかなくてごめんね。

 

登校拒否になりたての頃は、そんなこともまだ気がついていなかった時期でしたので余計に問い詰めたりして可哀想なっことをしたなと思っています。

 

そして、娘に寄り添おうと決めて学校を休みだした頃――。

 

娘が学校に行っていないことを知った義理の両親たちからの声かけがはじまりました。

 

大体は、娘はどうして学校に行かないのか? 

当たり前ですが、本人にではなく、私に聞いてきました。

 

体調を崩して・・・・・・などと色々言ってはみましたが、どれも腑に落ちない感じでした。

 

結局、また登校できるようになるまでは気に入らないといった感じです。

 

そういった問い詰めは、これが始まりにすぎませんでした。

それから色々と言われてしまうのですが、学校からも家庭からも言われるのは全て私です。

 

「お母さん、大丈夫ですか?」

「なにか相談があったら言って下さいね!」

「あなたがちゃんとしないから、登校拒否になるのよ」

「あの子が学校に行かないと、ウチの親戚の評判が悪くなる」

 

色んな人に色んな事を言われて、頭の中がグチャグチャでした。

 

それでも娘を守れるのは私しか居ない――。

娘には笑顔で接し、隠れて泣いていました。

 

そして、最低な言葉を言われてしまう日がきました。

 

「○○○(娘の名前)の顔を見るとムカついてぶん殴りたくなるんだよねー!!」

 

これは、義理の妹から直接言われた言葉でした。

 

私が生きてきた中で、一番言われて酷く辛い言葉でした。

自分の娘のことをそんな風に言われる日がくるなんて――。

 

そんな酷いことを言い出すあなたの顔を見ている方がムカついてくるんですけど?

腸が煮えくりかえりそうなほどの苛立ちを覚えました。

――が、ぐっと堪えました。手をぎゅっと握りしめて。

 

どうしてこの人は、そんな酷いことを母親である私に言ってくるのだろうか?

まるで娘のことを心配している言葉ではないし、当然私のことも心配していない。

 

そもそも、「心配する」って気持ちはこの人の中にはあるのか?

怒りと呆れで、何も返す言葉はありませんでした。

反抗しても仕方ない。

争ったところで何も解決はしないし、娘が心配なだけなのに心配してくれていない相手に無駄な喧嘩をする必要は無い。

 

しかし、義理の妹でも一応は家族ですので、そこは黙って聞きました。

受け流してごまかして過ごす日々が続きました。

 

すると、調子に乗ったのかわかりませんが・・・・・・。

 

ある夜、私を自分が働いているお店に呼び出してきました。

 

話があると――。

 

 

 

《つづく》

子供の身体に起こった異変

こんにちは! るんらびです^^

 

前回から子供の登校拒否が始まったお話をしました。

 

子供が学校に行きたくないと言い出した大きな理由は、朝バスに乗ると起こる気分の悪さが原因だったみたいです。

 

給食も全部食べきる事が出来ていなかったようで、毎日遅くまで1人で残って食べていて、給食室まで食器を返しに行った際に「遅いよ!」と給食センターの人に怒られていたとも後で先生から聞きました。

 

一概に、何が嫌なの? と聞いてもうまく理由が話せない年齢ですので、そんなに追求して聞くのは本人をもっと追い詰めてしまうだけで意味が無いと思いました。

 

それでも、初めの頃は行きなさいと少し強めに当たってしまっていましたので、本人も泣きじゃくって布団に潜り込むばかりでどうにも登校させられず、自分はバイトにも行けずに困ってしまう日々が続きました。

 

わたし自身もそんなに社交的ではないので、先生に相談などもあまりできていませんでしたし、学校に呼び出されては気を利かせて話してくれる保健の先生や教頭先生などとどうすれば学校で過ごせるかを議論し、色々と誘ってみて、でも失敗しての繰り返しになりました。

 

正直、わたしも小さい頃に学校に通うのは嫌で嫌で仕方ありませんでした。

娘のように給食を食べきれないことが多かったですし、苦手なこともたくさんありました。

なにより、担任の先生が急に怒鳴り出したりしてそれが恐くて仕方が無かったのを覚えています。

 

学校って、教養や社会のマナーを教えてくれる所だとは思いますが、強調されて連帯責任などを一緒に背負わされているようで何か好きになれなかったんですよね。

 

人間ですから、得手不得手は沢山あり、個人差はさまざまです。

 

仲間達の間でも我慢できないことも色々あります。

娘は、人より苦手な事が多くて不安ばかりが頭にあふれ出てしまっていたのだと思います。

 

一番心配したのは、学校が嫌だと言い出してからご飯を食べなくなってしまったことでした。

ただでさえ食の細かった娘がまるで食事をとってくれず、それが3日ほど続いてしまいどんどんやつれていってしまいました。

 

そんな娘の姿を見ていて、わたしはもう学校に行かなくて良いよと言うようになりました。

 

娘が登校してくれないとバイトに行けないだとか、登校しないと先生から電話がきて連れてくるように言われてしまうとか・・・・・・。

 

初めはそんなことを気にしていましたが、そんな娘を見ていたら一番重要で守らなくてはいけないのは娘の身体、娘自身の心なのだと思うようになりました。

 

そして、しばらく食が戻り落ち着くまではお休みさせますと決め、先生に話をしました。

 

それが親として、一番やらなければならない、守らなければならないことなのだと本能で感じました。

 

自分の仕事よりも、学校との問題よりも、娘が大切なのだと。

わたしが見放したら、誰が娘を守るのか? 

そんな単純な答えもすぐに出せなかった自分に嫌気が差しました。

 

学校もとりあえずは身体が大事だからと分かってくれましたので、少しお休みさせることにしました。

 

そして、不登校が始まってから数日経った頃。

 

義両親と義兄妹からの言葉の攻撃が始まりました――。

 

 

 

《つづく》

急に始まる『登校拒否』

こんにちは! るんらびです^^

 

今回からは、わたしの子供のことについて書きたいと思います。

 

さて、わたしの娘は生まれつきの病気があり、入退院を繰り返したりして不安な日々を過ごしたりもしましたが、体重が増えて薬の量も調節できたころから普通の子と同じようにすくすく育っていってくれました。

 

幼稚園に入園し、楽しんで通っていたので、わたしも娘もお友達ができてとても楽しかったです。

 

小学校に入学し、学校に行き始めたころも幼稚園とはまるで違う生活なので疲れてはいましたが、先生の言うことをしっかり聞いて真面目に学校生活を過ごしている子でした。

 

そして、2年生になり少し勉強が難しくなってきた頃。

 

近所で塾をやっているから、やってみない?

とのお誘いが義理の両親からあり、考えていました。

 

わたしは塾には通いたいと本人が言わなければあまり必要性を感じていませんでしたので、すぐに返事をすることはありませんでした。

 

というのも、わたし自身も小学生の頃に塾をやっていた時期があったのですが、友達のすすめでほぼ強制で入りましたので、毎週通うのがだんだんと苦痛になりやめたいな~やだな~と思った経験があったからです。

 

娘に聞いても、自分の気持ちがあまりよくわからなそうでした。

はっきりしない返事が続きましたので、やってみて考えれば?

と言われて曖昧に頷いていた感じです。

 

月謝を払ってくれるということでしたので、わたしとしては悪くないかなとも思いましたし、塾と言っても個人でやっている塾でしたので、どんな先生がどんな風にやるのかもまるで分からないままでしたが、とりあえず行ってみようかと誘われて行く事にしました。

 

実家の隣に建てた小さいプレハブ小屋を教室にして、3人の勉強を見ている本当に小さな塾でした。

 

中でも通っていた男の子は、先生にビシバシしごかれているようでしたので、先生の印象は恐い人・・・・・・なイメージでした。

 

メガネをかけていて、無口で大人しい雰囲気の人でしたが、男の子の勉強になると怒鳴ったり頭を叩いたり普通にする先生だったみたいです。

 

娘にはそのようなことはありませんでしたが、その塾に行かせてみて一番驚いたのは、宿題があるということでした。

 

小学校2年生の算数でしたので、かけ算のプリントだったのですが、なんと1日2枚のプリントが出ていて本当に大変そうでした。

 

大人からしたら、毎日やっていればそんなに大変じゃないと思うかも知れませんが、2年生でまだ完璧に覚えられていないかけ算のプリントは1枚やるのも大変です。

 

塾に行きだしたのが秋の終わり頃でしたので、そんなにしないで冬休みに入りました。

 

冬休みも同じように宿題が出ていましたが――。

 

冬休みは、そもそも学校の宿題があります。

 

冬休みのワークなどに手を付ければ、もう勉強するのは嫌になりますよね;

 

塾も冬休みに入っていたので、次の塾に提出しなければいけない宿題のプリントが40枚近くありました。

 

毎日やれば・・・・・・なんて、個人差はありますよね。

娘はそのプリントの量に根負けし、あまり手をつけない日々でした。

 

そうなると、冬休みの後半は宿題、宿題、宿題――。

 

なかなか終わらないもの凄い量のプリントに、わたしもイライラしてしまい、娘にずっと「宿題やらないと!」と、声を掛け続けていました。

 

イライラしながらやっている娘を励まし、どうしても終わらなかったのでわたしが手伝ったりもしました。

 

どうにか宿題を終わらせましたが、そのころから娘の様子が少しおかしくなってきました。

 

新年を迎え、新学期になり塾と登校が始まったころ。

 

急に、朝学校に行くと気分が悪くなる――と言うようになりました。

 

娘は朝はバスで登校していましたので、バスが揺れるんじゃない? と言ったりして励ましていました。

 

そんなある日、学校から電話がかかってきました。

娘が気分が悪くて保健室で寝ていると。

 

わたしはその当時は近所のコンビニでバイトをしていましたので、連絡をもらってから早退をして娘を迎えに行きました。

 

「大丈夫?」と慰めながら家に連れて帰り、特にそれからは何も無く落ち着いて普通に過ごしていました。

 

――そして次の日。

 

「ママ・・・・・・学校行きたくない・・・・・・」

 

登校拒否が始まった瞬間でした――。

 

 

 

 

《つづく》

母が家出しました。

こんにちは! るんらびです^^

 

前回は、両親の結婚事情や父のことを書きました。

そして、母が家を出て行った――というところまででしたね。

 

母が急に家出をしたのは私が中学生の頃でしたが、母は正直言いたいことを言わないので日頃何を考えて居るのかわからない人でした。

 

弟妹がいて、私は一番上なので一緒に遊んでもらったこともありませんでしたし、私の事に興味を持ってくれることがありませんでした。

 

必要な事以外は、私が声を掛けないと返事をしてくれません。

何も話しかけては貰えず、いつもため息をついているような人でした。

 

そんな母が急に家から姿を消した理由――。

ずばり、お金でした。

 

お金がなく、父からもあまり貰えず、末っ子のオムツやミルク代に困っていたのだと。

 

書き置きしてあった手紙に、そう書いてあったそうです。

財布も持たず、当時は携帯電話はあまり主流ではありませんでしたので、何も手がかりもなく、私たち家族は家で母の帰りを待つことしかできませんでした。

 

そして、警察に捜索願を出しました。

それから母は見つかり、父が警察署まで迎えに行きました。

 

その時に、どんな会話をしたのかは分かりません。

私は詳しいことは何も教えてもらえませんでしたし、子供だから知る必要もないと思っていました。

 

引っかかる箇所の多い母は、性格的に無口で父とあまり会話をしようとはしません。

どれほど困っていても、相手に伝えられないのです。

 

母が家出をしたのはその時だけでしたが、それからもきっとお金のことを考えていたんだろうなと思います。

 

それだけ、お金の力は偉大であり、生きるためには無くてはならないものなのですね。

 

働きに出ていた時期もありましたが、ある日突然その会社から「出勤していません」と連絡が来たこともありました。

もちろん、その日もいつも通り家を出ていましたので、家族は驚きました。

後で問い詰められていましたが、職場関係の悩みがあり行きたくなかったのだとそのまま仕事を辞めてしまいました。

 

「何を考えて仕事してるんだ? 何にも考えてないんだろ?」

 

そんなことを言われていたそうです。

ですが、本当にそう思われてもおかしくないくらいの人なので、私は内心はその意見に納得してしまいました。

 

それ以来、母は働かなくなりました。

 

田舎だったので足代わりに車の運転もしていましたが、免許証を無くしたことを黙っており、そのまま有効期限が切れて無免許になったりもしました。

 

何かと問題を起こすのは母でした。

 

問題が起きてから家族に知られ、怒鳴られ、問い詰められ、泣き崩れていました。

 

私は知らないふりをして普通に過ごしましたが、果たして母は父と結婚をして、お嫁に行かず実家で同居暮らしを選び、子育てをしていて幸せだったのだろうか?

 

本人にしかそれは分かりませんが、辛かった時期は父も母もお互いにあったと思います。

 

今は引っ越しをして母の実家からは離れていますが、そこで暮らしていた日々は強烈に記憶の中に残っています。

 

今はよく笑っていて、昔よりは明るくなったかなと思いますが、何の趣味も興味もわかない人なので、楽しい事を探して欲しいなと。それは少し老後の心配がありますね。

 

私の身の上話にお付き合いいただき、ありがとうございました;

 

次回からは、私の子供のことを話そうと思います。

 

 

 

《つづく》

私の存在は泥でした。

こんにちは! るんらびです^^

 

前回は、私がこれまでに引っかかってしまった詐欺のことについて書きました。

あれから月日が経ってはいますが、その時の心境や思いがそのままトラウマとなり決して忘れてはいけない、忘れられない出来事になりました。

 

この件については、夫以外には話していません。

他の家族、特に実父には決して口が裂けても言えないと思っています。

恥ずかしいですからね。

私はあまり頭が良い方ではないので、何かと飽きられている部分はあると思います。

何か不具合があって話をしても、私の言うことをすぐに信じたりはしてくれません。

今までの行いや、ポケポケと何も考えて居ないような発言に信用性が見いだせないのだと思いますが・・・・・・。

 

今回は、そんな実父の話をしようと思います。

 

私の父は、関西圏生まれの関西育ち、生粋の関西人です。

ですが、母と結婚をすることになり関東に移住しました。

婿入りですね。

 

関東人の母と関西人の父が出会ったきっかけは、当時に流行っていた雑誌の存在でした。

文通相手を募集するコーナーがあり、(時代を感じますね;)

父がそこに掲載しました。

段ボールいっぱいに全国の女の子からお手紙が届いたそうです。

その中で、文字が綺麗だからと文通を始めた相手が母でした。

 

まさか、本当にそんな単純な出会いで結婚までするなんて――。

不思議でたまりませんでしたが、そんな偶然がいくつも重なって私が生まれたのかと思うと、本当に自分が存在していることって奇跡で、当たり前なことなんて何も無いんだなぁと思います。

 

しばらく文通して仲を深め、ついに母が父のいる関西へ向かいました。

母がお財布を落としてしまったり、父が車をぶつけてしまったり、なにかとトラブルもあったようですが、その時のデートの記憶などは2人の思い出ですね。

 

そして、私がお腹にいることがわかり結婚を決めました。

 

ですが、俗に言う「できちゃった結婚」です。

当時はまだ昭和の時代でしたので、結婚前に子供をつくることは一般常識的にありえないことでした。

 

この結婚を許さなかったのが母の実父である私の祖父です。

 

家出同然に関西の父に会いに行き、私を身ごもって帰ってきた母の顔を、祖父は胸ぐらを掴んで殴りました。

そして吐き捨てるように言ったのです。

 

「よくも俺の顔に泥を塗ってくれたな!!!!!」

 

この一件は、母は言わないようにしてくれていましたが、私が高校生のころに叔母に言われました。

 

普通は気を遣って言わないんですけどね・・・・・・性格が悪い人なので仕方が無いです。

そんな祖父と叔母については、また別の記事でお話しします;

 

あぁ、私の存在は泥なんだな・・・・・・。そんなことを考えて悩んだ時期もありました。

本当に辛い子供時代を過ごしましたので、余計に悩みました。

私が生まれなきゃ、父も母も大変な思いをしなかったのではないかと。

 

それでも私を産んでくれた。

関西に親しんだ父が、嫁に行きたくないと言う母の希望を通して嫌な義父のいる関東に婿入りすることを決断したことには深い意味と理由があったからなのだと思っています。

 

父は、関東の暮らしはまるで分かりませんでした。

母の実家は関東の中でも田舎でしたので、都会育ちの父はそのギャップに大分苦労していたようです。

 

電車に乗ればどこにでも行けた生活から、周りを見渡しても田んぼと畑しかない場所に生活圏を移し、もちろん友達もいませんでした。

 

そして、自営業を始めました。

頭の良い父は、会社に勤めるという選択肢がなく、PCが好きでしたので自分で会社を立ち上げ仕事をしていました。

詳しい仕事内容は今でも話をしてはくれませんが、本当に忙しそうにしているなとゆうのが幼い頃からのイメージです。

 

母の実家で祖父母や叔母と同居をしていましたが、祖父との仲は最悪で口も聞かないレベルでしたので、みんなが夜に寝静まった頃にこっそり寝にだけ帰ってくるという感じでした。

お金もなかなか貯まらず、4人弟妹でしたので引っ越すこともできず、母の実家は建て直した大きな家でしたが、祖父母と叔母が4部屋使い、私たち6人はみんなで6畳間の1部屋で過ごしました。

 

それでも父は弱音を吐くことはありませんでした。

酷いときは、別でアパートを借りてそこで暮らしながら仕事をしていたこともありましたが、私たちにはとても優しかったです。

一緒になかなかご飯を食べられなかった為、たまに誘ってくれて母と弟妹達とで外食に連れて行ってくれました。

 

その時間が、本当に楽しかった――。

祖父の話になると長いのでここでは割愛しますが、祖父と一緒に家にいる時間は本当に辛くしんどかったです。

一緒にいたくないという思いばかりでしたので、父の誘いを断る理由は何もありませんでした。

 

そんな生活が続いていた、ある日。

 

母が家から急にいなくなりました――。

 

 

 

《つづく》

詐欺師VS弁護士② 決着

こんにちは! るんらびです^^

 

前回の続きです。

弁護士さんに相談して依頼し、じっと待っている事2ヶ月。

この期間は本当に短いようで長く、どれだけ取り返してもらえるかよりも、この一件に決着が付いて早く終わってくれないかと落ち着かない日々を過ごしていました。

 

というのも、私はとても心配性な性格でどれだけプロに頼んでいたとしても自分の知らない所でなにが起きているのか?

本当に任せても良かったのか。

正直、思いましたし・・・・・・。

 

それ以上に、詐欺にあったという事実が頭から離れず、しばらく落ち込みました。

今でも、トラウマとして残っています。

 

そんな日々の中で、ついに弁護士さんから動きがあったようで、メールが届きました。

 

内容は、今交渉中で○○万くらいを取り返せそうだということ。

カード会社と連絡をしてカード払い分を取り返せそうだということでした。

 

良かった――。素直にそう思いました。

 

もう返ってこないと思っていましたので、唯一の賭けでしたが、本当に取り返せるヒーローがこの世に存在するのだと。

ばいきんまんから、盗んだパンを取り返すアンパンマンがいるのだと。

その時に、弁護士さんという強い味方がいることを実感しました。

 

それから数回のメールのやりとりを経て、最終的にカード払いの10万円。

他に追加で、振り込んだ金額の内17万円。

 

合計で27万円ものお金を取り返してもらえることが出来ました。

 

十分でした。

40万円の内で半分以上も取り返していただき、本当に感謝しかありませんでした。

 

成功報酬型でしたので、その内の4割を引いた残りを口座に振り込んでいただき、入金が確認できたところで示談が成立しました。

 

最後まで丁寧にメールで対応して下さり、本当に安堵し、感謝しました。

たくさんお礼を言って、夫にも伝え2人で喜びました。

 

返ってこないと諦めていた為、本当に驚きましたし、良かったねと言い合いました。

 

戻ってきたお金は、そのまま大切に置いてあります。

もうこのようなつまらないことに引っかからないようにと胸に誓った瞬間でした。

 

それから自分の愚かさに本当に気がつくのはまだ先の話ですが、大きな詐欺にあったのはこれが最後です。

 

優しい人は人を信じやすい。

 

タダで飴をくれる人に子供は付いていったらいけないのと同じで、

タダでお金をくれる人に大人は騙されてはいけませんね;

 

そんな馬鹿な私でしたが、今では直ぐに「これは詐欺だな」と分かるほどにもなりました。

人間は、失敗した分だけ成長していけます。

 

人を信じることは良いことだけれど、それを悪用する人も沢山いることを忘れずにこれからも信じれる人を見極めていきます。

 

これで、私があった詐欺事件は幕を閉じました。

起こったことはもう無かったことにはできない。

自分の中の黒歴史として、これからも胸に刻んでいきます。

忘れられないけれど、忘れちゃいけない――。

 

人を信じる事の代償は、とても高いのだということ。

 

詐欺にあったと気がついた時のあの気持ちを忘れずに。

 

自分が本当に信じられて幸せになれるのは、家族の存在だと再確認しましたし、改めて危機にあった時に守ってくれるのは夫なんだなと惚れ直しました。

 

そんな家族の気持ちを忘れずに、家族のために一生を捧げようと誓う日々です。

 

みなさんも、詐欺にはお気を付けて。

 

 

《つづく》